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目は口ほどにものをいうから、人に目を見られるのが怖い話

更新日:2021年6月9日




私は文章を書くのが早いと言われることが多い。

情報をインプットして、意味が通るようにそれなりの文章をパパっと仕上げることは、人よりは得意なのかもしれない。


でも私は、自分の言葉の重みや扱い方に対しては、あまり自信が持てていない。

それなりの文章は書けても、人の心にすっと入っていくような重みのある文章は書ける自信がない。

恐らく、文章に自分の「思い」をうまく乗せられないからだろう。


普段の会話でも、私は明るく社交的であるかのようにふるまい、言葉も人より多く話す。

しかし重要な話し合いや、自分の思いをしっかりと伝えなければならない場面など、肝心なところでは閉口し、心を閉ざしている。

だから、「自分の思い」が、言葉に乗ることが少ない。


笑顔でぺらぺらと言葉を吐き出せる時、私は感情をさほどのせることができていない。

楽しそうに笑っていても、心は無表情のままなのだろうなと思う。

これは性行為や性的なやりとりをしているときも同じだ。

表面的に笑顔で「好きー!」とか適当なことを言いながら、行為に没頭していく。

心の中では、相手に対する思いなどみじんもない。ただ、性的な行為に浸っていたいだけのうわごとでしかない。うわごとをつぶやきながら、視線は天井に向いていることが多い。


以前読んだセックスにまつわる本の中で、「セックスの時は相手の目を見ろ」と言っていたのがあった。私は行為中に目を見られるのはあまり好きではない。

性依存症当事者にとってのセックスなんて、相手が誰かなんてどうでもいいことがほとんどで、お互いに快楽の波の中を泳ぐのに躍起になっている。

相手の目をみて、相手の思いに心を寄せようとしようとしたところで、そもそも相手がこっちを全く見ていない事実に直面して空しくなるだけだ。


「セックスの時は相手の目を見ろ」というのは、ある意味で筋が通っているのだろう。

相手の目を見ることができるのは、お互いに「相手の目を見よう」という意思を共有できていなければできない。

どちらかが行為に没頭してしまい、相手を見る余裕を失っていれば、見つめ合うことは成立しない。相手の目を見て見つめ合う、というのは、性行為の相手をきちんと受け入れていることの証にもなりうる。


目を見ることは何もセックス中に限った話ではない。

私は人の目を見て話を聞くのは好きだ。でも、自分が話している時に目を見られるのはあまり得意ではない。自分の奥底にある、閉ざした心であったり、誰にも言えずに隠している後ろめたい秘密が暴かれてしまうような気がしてしまうからだ。


結局のところ、私は人の目を見ることはするくせに、目を見られることに対してひどく抵抗があるのだ。

心に後ろめたさをひた隠しにしている限り、目を見られることは苦手なままなのだろう。


回復を続けていく中で、後ろめたさをきちんと明らかにして、心の中にある後ろめたい秘密に正面から向き合って、人とのつながりの中で心を少しずつ開けるようになってきたら、私は他人と目を合わせながら話すことができるようになるのだろうか。


少なくとも、どうでもいいことはべらべらと喋る癖に、核心に迫るような大事なことになると口をつぐんでしまうような、心の閉ざしてしまうずるい自分は、徐々に変えていきたいと思っている。

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