感情の行き先

自分の率直な心境を書き出そうとすると、書き進めるうちに「なんか違う」と感じて、全部消してしまう。そんなことを、小一時間繰り返しているので、いい加減消さずに書き進めようと思う。





私は感情の塊みたいな人間だ。とにかく高低差が激しい。仲間とたくさんおしゃべりできた日はもう満面の笑みで穏やかに幸せを感じていられる。でも次の日には、自分の中の感情のジェットコースターが急降下し、「なんでこんなにつらい思いして生きてなきゃいけないの?さっさと死ねばよかったのに何で今でも生きてるんだろう」と嘆き始める。


自分でコントロールできるものなら、とっくにそうしている。せめてテンションが上がりすぎないように自分を制したり、感情が下り坂だと自覚したときに楽しいことを思い浮かべてブレーキをかけたりできれば、だいぶ違うのになと自分でも思う。でも、そんな小細工は通用しないぐらい、一気に感情のボルテージがあがってしまうのだ。一瞬で沸騰するような感じ。


しかもこの感情の急降下のほうは、表現する手段が乏しい。ありのままに感情を表出してしまうととんでもなくヒステリックな人間になってしまって周りの人間に迷惑をかけてしまう。かといって、自分の感情の怒涛の変化を何かしらの形で表現しなければ、不安や恐怖でパニックを起こしてしまう。


そこで行きついたのが、チャットやTwitterなどで連投するように自分の感情を吐き出すことだ。これはセックス依存症に陥る前、性的なチャットに潜って、自分の性と引き換えに不安や恐怖を吐き出していたころに身に着けた術だ。真顔で自分の今感じている不安や恐怖、強迫観念、苦しさを文字にする。文字ベースだから、相手に連投で威圧的に伝わる。


性的な下心と、異様な連投のおかげで、「大丈夫?しんどそうだね」と心配してもらえているように感じていた。結局のところ、性的な下心が大半を占めていて、私のことを心配してくれているわけではなかったのは今になればわかることなのだが。


Twitter依存が加速すると、Twitterでの出来事でも傷ついたり、心を乱されたりして、私生活でパニックを起こし始めたり、支障をきたし始める。そうなってるときは、えてして感情的な連投が多くなっている。荒ぶる感情的なツイートの連投は、当然見ていて気分がいいものではなく、フォロワーが減っていったりする。


しかし、この感情的な連投も、立派な私の一側面なのだ。どうしようもない感情の吐き出す場所を、どこかに求めてしまう。誰かに聞いてもらわないと、この苦しい感情で苦悩した自分の苦しみそのものがなかったことになってしまうような気がしてしまう。一人で耐えてしまったら、なかったことにされてしまう。ずっと自分一人で耐えて、頑張ってきた結果、生まれた歪みが性依存症や自傷行為、精神疾患として表れているのだから、一人で耐えて「こんなに頑張ってるのに報われないから、もうどうでもいいや」とやけくそになって嗜癖に手を染めていくような同じ轍を踏みたくない。だから、こうして感情をぶつけるように吐き出しているのだ。


これもありのままのわたしなんだと、認めてほしくて、わざとTwitterという媒体を選んでいるところもあるのかもしれない。今は感情的なツイートは鍵アカウントに限定するようにしたり、使い方は少しずつ改良できてきてはいるものの、きっとこの「感情の排水溝」がなければ、私はまともに日常生活を送ることができないのだろうなと思う。


こんなに感情の激しい私なのに、「抑圧してきた感情」というものが過去にある。過去の記憶と共に噴き出してくるそれは、とてつもなく痛くて、苦しい。まさに当時の「再体験」のように感じられて、「こんなこと思い出さなければよかった」と感じることも多い。


でも、「抑圧してきた感情」を丁寧に拾い上げて、整理してあげない限り、心の不安定さ、被害妄想、過剰反応といった問題を抱えたまま生きることになる。たとえ向き合ったとしても、問題はそのままかもしれないが、向き合って少しでも、人を傷つけるような問題が軽くなれば、将来的に人を傷つける頻度が減るはずだ。だから、私は自分の「抑圧してきた感情」を、きちんと整理していきたい。ある意味でこれは、人と関わることから逃げないための、決意でもあるのかもしれない。

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