愛というものを定義するのはとても難しい。
穏やかで安心感に包まれるような愛もあれば、
激しい奔流に巻き込まれていくような激しい愛もある。
ホルモンの観点で言えば、前者はセロトニンによる安心感によるもので
後者はドーパミンの暴走がもたらす激しさを持つ。
他者との出会いで、激しく惹かれ合うのは当然のことだ。
一般的には、両者の思いが通じ合うことで得られる安心感を求めて「恋愛が成就すること」を願い、そして見事結ばれることで穏やかな愛を獲得できる。
しかし、幸せで安心できるはずの「穏やかな愛」を避けてしまう人が一定数いる。
根底にあるのは、生きてきた過程で植え付けられてしまった、
穏やかな愛情というものへの疑念や恐怖だ。
生育環境が安心とは程遠いものだった
愛情をもらうには努力や見返りが必要だった
安心して信頼していた相手から、虐めを受けた など
たった一つの逆境体験が、人の心をいとも簡単に歪めてしまう。
なぜ浮気は許されないのか?なぜ性加害は心の殺人と呼ばれるのか?
その答えはシンプルだ。
他者の心を歪めてしまうから。
歪んでしまった心は不可逆で、元に戻ることはない。
向き合うことで少しずつ癒していくことはできるだろう。
しかし、素直に愛情を受け止めて安心できるまっさらな心には戻れない。
私自身が性の問題と正面から対峙していく理由はここにある。
心を歪められるような被害を理不尽に受けてしまう人を一人でも減らす。
既に歪んでしまった心のせいで性の問題や愛情の問題で苦しんでいる人が、少しずつ回復して立ち直って生きていけるような社会を作っていく。
歪んでしまった心、愛情をうまく受け取れないことそれは本人に責任があるわけじゃない。周りの環境のせいだ。
自分のされた仕打ちを許さなくていい。
でも忘れないでほしい。
歪んでしまった心でも、一つひとつ傷を癒していけば
愛情に対する恐れや疑念を、徐々に取り除いていくことはできる。
自分は愛される価値がない。
これは性依存当事者の中核によくある信念の一つだ。
しかし、この信念は根底から間違っている。
自分には愛情が向けられていると信じることは、自らを危険にさらしてしまうと曲解せざるを得ないほどに、追い込まれ、傷つけられてきた。
自分を守るためには、「愛される価値がない」と思い込むほかに生き抜く術がなかった。
それだけのこと。
愛される価値がない人間などいない。
まずは自分に、そう語り掛けるところから始めてみるのがいいのかもしれない。
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