作:Shiro 原題 "The Gender Day" 2021.10.17
今朝の頭痛は鈍く、ひどかった。出来ることなら、このまま一日中寝過ごして、今日という一日をとばしてしまいたかった。私は月に一度、自分の呪われた運命を恨む。
科学の進歩の恩恵は私たちの性別というに垣根を超えるのに、以前ほど手間がかからなくなった。性別は柔軟に変更できるようになったのだ。女性が十月十日、重いお腹を抱えて、辛い痛みに耐える自然分娩は過去の遺産と化し、子供を望むカップルは病院で相談し、行政での手続きを済ませるだけでよくなった。女性は妊娠という文字通り重い役割から完全に開放された。私たちは、性の違和感から完全に開放され、自分の望む理想の自分として生きることが可能になったのである。
今日を除けば。
10年ほど前に制定された「ジェンダーの日」というものは、この日だけは「生まれたときの性」で生活をしなければならないというものであった。「ジェンダーの日」の目的は、自分の性自認に定期的に向き合う機会を設けることであった。私たちのジェンダー感覚は、四季のように映っていくものである。中には、夏は女性として生き、冬は男性として生きるといったような生き方を徹底している人もいるようだ。
どちらにせよ、月に一度訪れるこの日は、私に呪いのように降りかかってきた。女性らしくふるまわらなければならないことが嫌なのではない。私は男性と女性の両方の性自認を持っている自覚があり、そんなことは大した問題ではないのだ。
『おはようございます、エル。今日はジェンダーの日です。』バディが話しかけてきた。バディは人間ではなく、私たちの生活を支える、言わばAI搭載個人秘書ロボットといったところだろうか。「わかってる。わかってるよ・・・」私はぶつぶつと繰り返しつぶやいた。バディは続けざまに言った。『本日のデートはどうされますか?』バディの音声を聞いた直後、突如として腹の底からいらだちが込み上げてきて、気がついたときには叫んでいた。「何度も言ったでしょ!?ねぇ!!!」私は手にしていたスマホをベッドに放り投げ、さっと毛布を被り、巣穴に逃げ込む小動物のようにベッドに戻ってしまった。出来ればもう、ベッドから降りたくない。『では、設定を解除しますか?』バディがまた話しかける。私はすぐに「やめて!」とまた叫んだ。もはや全く冷静さを欠いている私は、この時初めて自分が泣いていることに気が付いた。「やめてよ。それでもこのままがいいんだよ例えもう、だめ・・・」次第に泣きじゃくる私は言葉が続かなくなってしまった。
こんなルーティンを、ここ1年ほどの間は毎月繰り返しているのだ。私は泣きながら、ぼーっとした頭で大切な友人のことを考えていた。友人の名前はソラ。ソラと私はとても話が合い、いろいろなことを話し、たくさんの時間を共に過ごした。ソラは私より数年歳上で、温かく、そして頼りになる存在だ。ソラは男性として生まれ、普段は中性的に振舞っていた。飾ることもなく、誰に対しても穏やかに接するソラの姿と、中性というジェンダー観を独自のスタイルで貫く姿に、私は憧れを抱いていたのかもしれない。私は、ソラに少しでも近づきたかったのだ。「でも、憧れてただけじゃないって、言うべきだったのかな…」私はベッドに籠城したまま、まだぐずぐずと泣いていた。不意に、言葉にするつもりがなかった思いが、口からぽろぽろとこぼれだす。「憧れてただけじゃなくて、大好きなんだって、言えばよかったのかな。どう思う?ソラ。」口にした途端、言葉になることができない膨大な感情がなだれのように私の頭の中に流れ込む。「どう思うの?あんたはなんて答えるのさ。ソラ。」
ひとしきり泣いて、文句や独り言をぶつくさと言った後、私はベッドから抜け出し、着替えを始めた。ベッドの籠城という逃避をやめて、目の前の現実に向き合うことにしたのだ。バディが言っていた『設定』を、これまでずっと解除してこなかった理由も、私が前を向き続けるためのほんのちょっとした抵抗なのだ。バディは『本日のデート』と言っていた。これにはソラと私が交わした、ジェンダーの日の約束が大きくかかわっている。ソラと私は、普段こそジェンダーレスの価値観で、何でも言い合える、まさに親友という関係でとても心地よい距離感を保っていた。しかし、ジェンダーの日だけは違った。ソラは生物学的には男性で、私は女性として生まれた。ジェンダーの日だけは、ソラはスーツに身を包み、私はそれなりにフェミニンなドレスを選んで、メイクも女性らしさを強調した。そして、ソラと私は月に1度、ジェンダーの日の『デート』を楽しむことを約束していたのだ。ソラがどう思っていたのかは知らないが、少なくとも私は『デート』と呼んで、この日を楽しみにしていた。バディに『デート』と設定していたのは、私自身なのだから。
「さて、準備もできたし『デート』に行きますよー。行ってきます。バディ。」
私は玄関のドアを思いっきり開けた。風が私にめがけて吹き込んできて、まるで私に話しかけているかのような錯覚を覚えた。
10カ月前、ソラは交通事故に遭った。命だけは助かったものの、彼の意識は戻る気配はない。医者の見立てでは、意識が戻る可能性はなくはないものの、かなり低いという。私は事故後も、もちろんソラのお見舞いは欠かさないし、ジェンダーの日の約束はずっと続けている。「女の子」として着飾り、大事な友人の、愛するソラの回復を待っている。
「よ!ソラ。まだ寝てんの?さすがに寝すぎて飽きてこない?私もめっちゃ寝るけどさ~…」私はいつものように、話しかける。ソラは何も返してくれなくても、ずっと話し続ける。いつかソラの口から、私たちのジェンダーの日の約束のことを、『デート』だとおもっていてくれていたのか、尋ねることが出来る日が来ることを、待ち望んでいる。
ジェンダーの日は、呪いのように、そしてほんの少しの希望をまといながら、特別な一日になったのだ。いつまで向き合い続けられるかもわからない。潰れてしまうかもしれない。でも、今は何とか、ソラに会いに行けている。ジェンダーの日は、良くも悪くも特別な日だ。少なくとも、今の私にとっては。
- 完 -
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