
「傷つきやすい」という言葉を良く耳にします。「繊細な心の持ち主」とか、「他人の言うことをいちいち気にしすぎる」だとか、言い方は様々です。
こうした「傷つきやすさ」というものは、「他人が外側からみた、客観的な評価」です。
私は、「傷つきやすい」ことを自覚しています。目に飛び込んできた情報で傷ついたり、過剰に反応してしまったりして、苦しくなることが多々あります。どうしたら人とうまく接していけるのか、自分は人を傷つけてはいないか、傷つけたとしたら、きちんと謝れているだろうか・・・
そんなことを考えながら、自分の「傷つきやすさ」に向き合って、少しずつ自分の行動を振り返っています。
「傷つきやすい」と言われることの苦しさ
「あなたは傷つきやすい」と他人から言われること。それは、「自分に対して傷つけないように人並み以上に気を遣う必要がある」と指摘されていることと同じ意味を持ちます。また、「一般的にはその程度のことでは傷つかないけど、あなたはすぐに傷つくよね」と言われていることも意味します。
「些細なことをいちいち気にしている、あなたが悪い。」
そういわれているように感じてしまいます。これは私のとらえ方の歪みなのかもしれません。
「傷つきやすい」のは、悪いことなのか
私は「傷つきやすい」というのは、一つの特性であると理解しています。
他人や社会での出来事に対して、心を痛め苦しむことができる。これは、「一般的に見過ごされてしまうような問題に気づくことができる能力を持っている」ということでもあると私は思うのです。
「そんなこと気にしてたら身体が持たないよ」
なんて言われても、気にしないということができないから苦しんでいるのが、「傷つきやすい」人たち。
だからこそ、「傷つきやすい自分」を、きちんと守ってあげる術を身に着けることが、生きていくうえで大切なんだろうなと思います。
どうやって「傷つきやすさ」から自分を守るのか
これに関しては、自分でもまだ試行錯誤を繰り返している最中です。
自分が傷つく環境に身を置かないこと、無自覚に傷つけてくる人間関係からは適切な距離を置くこと、「自分は傷ついている」とはっきり伝えること、「傷ついたけど、傷つける意図で言ったわけじゃない」と真意を理解すること。こうした努力の積み重ねで、少しずつ、人間関係で傷つく機会を減らしていけるし、傷ついても大丈夫なんだって自信がもてるようになっていくんじゃないかなと思います。
「傷つきやすい」のは、目に見えないハンデ
傷つきやすい人は、努力や葛藤を抱えて生きています。しかし本人がどれほど努力や葛藤を積み重ねていても、目に見えるものではありません。さらに言えば、「傷つきやすい」とアピールすればするほど、「この人はめんどくさい人だな」と認識されてしまうのではないか、という懸念にもかられて、「結局傷つきやすい自分が悪いんだ」という自己嫌悪の渦に落ちていってしまいます。
「傷つきやすさ」を測る尺度もないので、人に伝えづらいのもあります。
でも、はっきりといいたいのは、傷つきやすいのは、その人自身のせいではないということです。傷つきやすい心を抱えて、懸命に努力を重ねて、生きていることだけでも、他の人がしないで済む苦労を重ねて、立派に生き抜いているのですから。
「傷つきやすさ」は、強みにもなる
「傷つきやすい」ということは、人よりも多くの心の痛みに触れてきているということです。それだけ、心の苦しさに対する経験が豊富であるということがいえます。
だからこそ、「他人の苦しさに寄り添うことができる」存在になれる強みにもなるのです。
「傷つきやすさ」で悩んで苦しんでいる人にとっては、こんな繊細な自分に嫌気がさしているという人もたくさんいると思います。私自身がそうです。ですが、少し視点を変えれば、いち早く他人の苦しさに気づいてあげられる優しい人だという長所にもなるのです。
「君は傷つきやすい」と言う前に、考えてほしいこと
傷つきやすさを持つ人に対して、「あなたは傷つきやすいね」という前に、少し考えてほしいことがあります。「傷つきやすさ」というものは、その人にとっては強いコンプレックスです。いうならば、「太っている」「顔が不細工」「性格が悪い」と指摘されているのと大差ないのです。
「傷つきやすいよね」と他人に指摘する前に、少しだけ立ち止まって、「ほかにいい伝え方はないか」、考えてみてほしいんです。たったそれだけで、「傷つきやすい人」に追い打ちをかけることを減らすことができます。
傷つきやすさと上手に付き合いながら、うまく生きていけますように。
(noteより転載し、加筆修正してます。)
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